ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
桜もすっかり散ってしまいました
ベンチの上にたどり着いた桜、可愛いです
去年の桜の記事で、桜の花を見ると、もうここにいない人、もう逢えない人も
きっと綺麗だと言うだろうな~というだろうな~という気持ちがわいてくると書いたのですが
そう思ってるのは私だけじゃないのだな~と上の詩を見て思いました
桜という花だけは「きれい」という一言だけですべての思いが伝わる花だと思います
それはきっと、私の親も、おじいちゃん、おばあちゃんも、そしてもっともっと昔の先祖も
桜を見て「きれい」と思った気持ちが今にまだ繋がっているからなのでしょうね
桜にはきっと私たちの先祖のDNAが宿ってる
だから毎年、桜を見るたび、今年もまた生きてる~と実感できるのだと思います
こんな世の中だけど、来年もまた桜を見たいと思うじゃないですか?
それはまだこの世界で生きていきたいということなのでしょね
桜が潔く散るのは来年もまた咲くと信じてるからだそうです
そして桜と同様、私たちも来年もまた桜を見れると信じてますよね
桜の花と人間はよく似てる
未来を信じてる